「こんなにぼろぼろになって、俺/私、何のために働いてるんだろう」というようなセリフを聞くことがある。その出所は、子育てと仕事を両立するシングルマザーであったり、休日なく会社に泊まり込むインフラ系勤め人であったり、クレーム処理のようなストレスフルな接客をこなす仕事人であったり。日常何かに「忙殺」されてしまった人間がつい漏らしてしまう、愚痴。ふっとため息の一つも添えると完成度が高い。

一方で、「俺/私の生きがいはこれなんだよ」ときいてもいないのに語りかけてくる人もいる。仕事そのものが生きがいであるという人もいれば、旅行や料理、買い物、読書やスポーツといった非労働行為を生きがいと認定して毎日を乗り切っている人もいる。

何のために生きるか、というテーマの切り口は様々であるが、生きるという言葉をありふれたものとして錯覚してしまう我々人類は(天敵なく生きていける生命など人類かハム太郎くらいのものである)、しばしば目標なき生を恥ずかしく思ったり情けなく感じたりするフシがある。TwitterのBio(プロフィール)欄で、「毎日惰性で生きてます」等と自虐を表す人間の多いこと多いこと。

生きがいとか生きる目標などと言ったものはそう簡単に見えてきやしない。「毎日何が楽しくてこんなに必死で通勤してるんだろう」というセリフの奥底には「もしかしたら俺、気付かないうちに何か楽しんでるんだろうか……?」という希望込みの疑問がスパイスのように隠されている。生きるということを手段にも目的にもしながらノラリクラリ型の人生を送る。そんなに都合良く「人生の目標」が壁に貼っているわけはない。居酒屋で小便をする際に目の前に人生訓を書かれているとたいていその店のことが嫌いになる。小便くらいゆっくりさせろ。

ある生命活動に対して、我々がおもしろいとか役に立つとかやりがいがあるといったような認定をする瞬間というのは本当にバラバラである。「何か」が生きがいになるかどうかなんて、なかなかわからない。「何か」に思い入れを込められるかどうかなんて、しばらく経ってみないとわからない。

なのに。

編集者という人間は、監修者や著者のモチベーションをほいほい引き上げたり、やりがいを感じさせたり、思い入れを持たせたりしているようだ。

うらやましい。
ずるい。
そっちがよかった。

人にやりがいを与える仕事というのは、まったくうらやましいものである。

2014/02/18
YandelJ
病理医ヤンデル