後進の育成。これは、自分が受け継いだ内容を、自分が受けた方法で伝えるというパターンが一番多いのではなかろうか。そもそも私たちは「誰かに何かを教える」ことについての "教育" を受ける機会はそう多くない。学生生活を過ごすうちに、部活動やアルバイトで何となく身に付いた "教え方/教わり方" を、自身の成長に応じてブラッシュアップしてきた人がほとんどではないだろうか。

一方で、部下の育成が自身の評価に結びつく組織もあるから、そういう場合は真っ正面から社員教育のHow Toに取り組まねばならない。だからこそ、管理職(あるいはそれに準ずるポジション)を対象とした、企業向けのマネジメント研修会が開催されていたり、それにまつわるビジネス書、あるいは自己啓発本も山ほど出版されていたりするのだろう。

ナレッジの蓄積と継承。部下の成長が自身の業績になる。それが導く業務の効率化。会社も "人材" という貴重なリソースを入手することになる。そうして組織も、そこで働く人間も成長を続ける。素晴らしいポジティブループ。

試しに手元の辞書で "やりがい" の項目をひいてみる。「やり-がい(遣り甲斐):するだけの値打ち」。値打ち。うん、確かにありそうだ。

ここまで書いたところで、横で流していたラジオから、一時期よく耳にした曲が聞こえてきた。曲の終わりに、DJの語りで「わたしは何をのこせただろう」という歌詞は、亡くなった人の視点で書かれたものだと知る。

人生には限りがあること、そして思いもよらないかたちで最期を迎えることも「ありうる」ことを、私たちは知っている(少なくとも、知識としては)。そんな私たちの頭の片隅にある、ふとしたきっかけで強烈に湧き上がることすらある「何かを残したい」という欲求の、やりがいはどこにあるのだろうか。

「私たちは、笑い合いながら、死を語ることができる。これは、人間の持ち味である」と書いた作家がいる。元来小胆な私は、自分が何も残せず消えたあとの世界を考えると怖くて仕方がなくて、その "人間らしさ" とやらを発揮できる日は来るのだろうかと漠然とした不安をずっと抱えていた。

ある日、ふと手にした医学雑誌の剖検について書かれた記事に「死者が生者に教える」という文言をみつけた。運が良ければ、私でも少しでも何かを誰かに残すことができるのだろうか。それを1つのやりがい、生きがいにしても良いのかもしれない。そう思ったら、なんだか少し救われた気がした。

「縁起でもない」と言われそうで、誰かと "死" を語ることは、これまでそうなかったように思う。人の生死に触れる機会の多い医療従事者は、どうなのだろう。今度、よかったら聞かせてください。

2014/03/11
nishino
西野マドカ