以前、ヤンデル先生の「病理医とは司令塔である」という主旨のツイートを見た際は「編集者に似てるかも」などとは思いもしなかったが、前回の手紙の最後の一行を読むと確かに少し似てるのかもしれませんね。ははは。

さて。先日、記憶の性質に関する記述を目にして驚いた。1930年代に心理学者が行った実験により、ヒトはさまざまな情報を「無意識のうちに自らの期待にもとづき、歪めて記憶する場合がある」ことが明らかになったというのである。しかも、その「歪んだ情報」のほうが本来の正しい情報よりも強く記憶されるらしい。

上の記述を読んで以来、覚えておきたい物事や会話はなるべくメモ帳に記録しているのだけれど、読み返すたび自分の記憶の不確実さに呆れるばかり。「忘れるからこそ生きていける」という説には同意するが、忘れるならいざ知らず、なぜ改変が起こるのだ。困る。記録に残すことの重要性を、この年齢になって実感している。

そんな折に届いた「1,000文字事変」の知らせである。これまでに届いた手紙は必ずしも1,000字以内ではなかった事実を鑑みるに「隔週火曜日に繰り広げられてきた1,000字の壁との激しい合戦の日々」は本当にあったのか、どうか。

ついでに言えば、私は「誰かのツイートに細かいツッコミをエアリプ」したことはない。したがって件の「先生の脳内に棲む鬼編集者」なる人物は、先生ご自身の「編集者=枷を与える職種」という先入観(あるいは期待)を縦糸に、2万人超のフォロワーの厳しいツッコミ成分を横糸に編みあげられた虚像である。彼の存在が先生の記憶改変をもたらしている可能性は否定できない。

とはいえ、編集者の仕事には「枷を与える」ことも含まれるのは仰せのとおり。枷の最たるものは "締切" だ。ネガティブなモチベーションを原動力としていただくのは心苦しいかぎりだが、その効果は絶大だ。「……ということは、自らに枷を課すことのできる執筆者は、編集者という存在をさほど必要としないのかも」と思い至る。と同時に、諸々の事務仕事に日々対峙している者としては、「それでもやっぱり、いたら何かと便利ですよ?」と言いたい思いも湧くのだけれど。

それにしても、前回の手紙のおかげで、本ブログの読者には「鬼」という強烈なイメージと「編集者」が紐づけられてしまった。まったくひどい風評被害だ。古来より「鬼と女は人目につかぬが良い」という。風評が落ち着くまで私は裏方にて執筆者を支える側にいようと思う次第だっちゃ。

なお、本企画でヤンデル先生が字数制限をオチに使ったのは前回で2度目であることをここに記録しておく。

2014/06/03
nishino
西野マドカ