2014年07月

17通目(ヤ)

「誠実」というあり方が人を不幸にする例を見る。

ある行動について、「動く方」と「受け取る方」が存在することを思う。誠実という現象は往々にして、「誠実に動いた人の意図を、受け取り手が誠実であると認識した場合にのみ成立する」。

片方が誠意を尽くしたとしても、その誠意を受け取る方が誠意と感じなければ、それは「お節介」かもしれない。相手の誠意を受け取ろうと構えていても、行動する側になんらかの皮肉や揶揄の意図があればそれは「誠意乞食」となり得る。

知性の無い所に誠実は存在しないのかもしれない。
日々の生活に余力が無ければ誠実は存在しないのかもしれない。

そんなことを考える。

「よかれと思って」という序詞から始まるセリフがいちいち嫌いである。
「伝わると思ったのに」という言い回しには無知しか感じない。
「待っていたのに」というフレーズがもたらすものは最終的には絞殺である。
「もっと優しい人だと思っていた」という言葉と対になるのは「知ったことか」であろう。

そういう原則に取り囲まれた状態でSNSを泳ぐ。「一言」が意図せず蒸発して、液体程度の流速を期待していたのに気体の速度でいやらしい隙間にどんどん拡散していく。思いやりと重い槍の区別がつかなくなる。刺し殺されないために相手の手を刺しに行ったところ自分の腕を刺されそうになって相手の胸を刺そうと考え直す。

言葉を書き連ねるうちにノートが黒くなり、右手の小指の付け根あたりが真っ黒に染まっていく。先に書いた文字を自分の手でにじませていく。

掃き溜めにいるのはゴキブリでありヤブ蚊である。

誠実という言葉ひとつがこれだけの韜晦を生む。誠の実が虚しく割れる。人の気持ちを慮るということは、おだやかに置いてあった花瓶をためつすがめつ眺めているうちに中の水をこぼす行為に等しい。

人類はなぜ「会話の方向」に進化したのか。行動の必要性を伝達しあうだけならジェスチャーで十分だったのではないか。

誠実とは何か。

人と自分とがそもそも違うのだということを確認しないまま一人で歩き続けた先にあるものが、誰かとディスコミュニケーションを繰り返しながら千鳥足でよろよろたどり着く場所とどう違うのか。

頭を抱えながらそれでもコミュニケーションを続けるということが、本当に誠実であるということなのか。


文通という殴り合いを通して私が考えてきたことは、そのようなことです。一つわかったこと、ボクサーってのはあれ、殴られる快感もおそらくあるんだなということ。

さよなら文通、次もまた殴り殴られながらカオとコブシの形を整えていきましょう。結局は、続けるということが誠実ということなのだ。(1084字)

2014/06/10
YandelJ
病理医ヤンデル

17通目(ま)

以前、ヤンデル先生の「病理医とは司令塔である」という主旨のツイートを見た際は「編集者に似てるかも」などとは思いもしなかったが、前回の手紙の最後の一行を読むと確かに少し似てるのかもしれませんね。ははは。

さて。先日、記憶の性質に関する記述を目にして驚いた。1930年代に心理学者が行った実験により、ヒトはさまざまな情報を「無意識のうちに自らの期待にもとづき、歪めて記憶する場合がある」ことが明らかになったというのである。しかも、その「歪んだ情報」のほうが本来の正しい情報よりも強く記憶されるらしい。

上の記述を読んで以来、覚えておきたい物事や会話はなるべくメモ帳に記録しているのだけれど、読み返すたび自分の記憶の不確実さに呆れるばかり。「忘れるからこそ生きていける」という説には同意するが、忘れるならいざ知らず、なぜ改変が起こるのだ。困る。記録に残すことの重要性を、この年齢になって実感している。

そんな折に届いた「1,000文字事変」の知らせである。これまでに届いた手紙は必ずしも1,000字以内ではなかった事実を鑑みるに「隔週火曜日に繰り広げられてきた1,000字の壁との激しい合戦の日々」は本当にあったのか、どうか。

ついでに言えば、私は「誰かのツイートに細かいツッコミをエアリプ」したことはない。したがって件の「先生の脳内に棲む鬼編集者」なる人物は、先生ご自身の「編集者=枷を与える職種」という先入観(あるいは期待)を縦糸に、2万人超のフォロワーの厳しいツッコミ成分を横糸に編みあげられた虚像である。彼の存在が先生の記憶改変をもたらしている可能性は否定できない。

とはいえ、編集者の仕事には「枷を与える」ことも含まれるのは仰せのとおり。枷の最たるものは "締切" だ。ネガティブなモチベーションを原動力としていただくのは心苦しいかぎりだが、その効果は絶大だ。「……ということは、自らに枷を課すことのできる執筆者は、編集者という存在をさほど必要としないのかも」と思い至る。と同時に、諸々の事務仕事に日々対峙している者としては、「それでもやっぱり、いたら何かと便利ですよ?」と言いたい思いも湧くのだけれど。

それにしても、前回の手紙のおかげで、本ブログの読者には「鬼」という強烈なイメージと「編集者」が紐づけられてしまった。まったくひどい風評被害だ。古来より「鬼と女は人目につかぬが良い」という。風評が落ち着くまで私は裏方にて執筆者を支える側にいようと思う次第だっちゃ。

なお、本企画でヤンデル先生が字数制限をオチに使ったのは前回で2度目であることをここに記録しておく。

2014/06/03
nishino
西野マドカ

16通目(ヤ)

ふと思ったのだが、君の手紙は1,000文字をちょっと超えているではないか。私は毎回、句読点や接続詞を工夫しながらぎりぎり1,000文字以内で収めようと四苦八苦していたのに。どういうことだ。本企画がはじまった時のメールを読み返してみると、「およそ1,000文字」的ニュアンスが書かれてはいるが「1,000文字を超えるべからず」とは一言も書かれていない。私が自分に課していた1,000文字厳守ノルマは、私の脳内に棲んでいる「いちいち細かいことにうるさくエアリプでdisってくる鬼編集者」の架空の説教によりもたらされた幻であった。

悔しい。

「編集者というものは他職種の人間になんらかの枷を与える仕事である」という私の先入観が、ありもしない精神抑圧的四面楚歌促進型被害妄想を生み出していたのである。隔週火曜日に「1,000文字の壁」と激しい合戦を繰り広げてきた私の日々も全て色あせてしまった。これも全て編集者のせいだ。 この際である。今日はこのまま「編集者のイメージは悪い」という話をする。もちろん、今回の事変(1,000文字事変と命名)で株価はストップ安、売り注文が止まらない。

私の知る限りでの話だが、編集者というものは、面倒な事務仕事(といいつつ世の中の大半の事務系職員と大して変わらない量の事務作業)を友人外非公開Facebookや匿名Twitterなどで若干スタイリッシュ気味に愚痴るのが日常となっている人種である。自分で創作できるだけの知見も智慧もありながら決して創作側には回らず、「私は書く人を支え育てる側に回りたいのです」と、聞いていて耳の下のリンパ節が腫れそうなくらいの美辞麗句を平気で発射する図書委員である。世事に対する審美眼を銃刀法抵触レベルで鋭利に研ぎ澄ませ、猛禽類の目とネコ科の脚力をもってして旬の話題を血に染める一方、草食動物の亡骸的コンテンツから「まだ使える!意外な使い方ができる資材」をはぎ取っていつしか装備してしまう食物連鎖を超えたモンスターハンターである。狩りの合間にはフォントとか紙質、万年筆など文系心を綿毛でくすぐるような小アイテムに熱烈なラブコールを送ることも忘れない計算型天然である。

つまるところイメージは最悪、諸悪の根源の風格すら漂う「編集者」と類似している職業などこの世にあるものか。「愚痴りながら事務仕事に励み、支える側と言いながら司令室で指示を出す軍師気取りのちょっと小うるさいマイルドインテリ系くされオタク」というと、確か病理医という仕事が少し似(1,000文字)

2014/05/27
YandelJ
病理医ヤンデル

16通目(ま)

接触した物事に対し「これは何に似ているだろう」と類似点を探そうとするクセが、私にはある。

初めて訪れた旅先の街並を「あの辺は京都、この辺は名古屋っぽい」と、見知った街並に照らしてしまう。アコースティックギターの演奏を聴けば「音階付きの打楽器って感じだなあ」などと思うし、コーヒーの香りを嗅ぎ「納豆に似てるかも?(※個人の感想です)」と謎の感想を抱いたりする。その街並みはそこにしかないものだし、ギターはギター、コーヒーはコーヒーだ。そのまま受け取ればよかろうに……と自分でツッコミを入れたくもなるが、何かの本に「"類似点" と "相違点" をバランスよく見ることが、対象が "ナニモノか" を知る上で重要だ」と書かれていたし、いつかこのクセが役立つ日も来よう。たぶん。

前々回届いた14通目に「客がソムリエに求めるものはそれぞれだが、患者が医師に求めるものは同じ」であり「ソムリエは個性を発揮することが求められるし技術すべてが言語化されている必要はない」一方「言語化されない医療はあり得ず、医師に個性の発揮は求められていない」とあった。

ここでも、私のクセは顔を出す。

なるほど相違点はわかった。
じゃあ類似点は……と探し始めてしまう。

「コンサルティング = 依頼者の課題を把握・分析し、解決方法を提案する仕事」と知ってから、職種は違えどその道の "プロ" の働き方は "コンサル的側面" が似ていると感じることが多い。この「聞き取った内容から、その人に合った対策法を考え、伝える」という "コンサル的側面" が、現時点で私に見える「ソムリエと医師の類似点」である……のだが。その特殊性が(ヤンデル先生により)語られることの多い "病理医" という医師は、この文脈に今ひとつ合致しない気がする。落ち着かない。悔しさすら覚える。

ツイッター上でヤンデル先生を見るにつけ、少しの苛立ちとともに類似点を探す日々は続く。


……ということで。手紙の書き直しってアリなのかしらと思いながら書き直してみましたけども。

しかし文通といいながら書き手2人は自称美女ではなくただの中年だし、便箋にしたためた手紙のやりとりなわけでなし、人には "リレーコラム" とか紹介してるし、手紙が添付されたメールには「原稿拝受」と返信するし。フツウの文通と違うことばかりで、ブログを読んだ人の「これ、文通?」って指摘も当然かもしれない、けど。

頭に浮かんだあれこれを文字で相手に伝えようとしてみたり、どんな返事がくるのか楽しみにしたり怯えてみたり、届いた返事に「ムムム」と唸ってみたり。このやりとりは何に似てるんだといえば、やっぱり文通なんだよな、と思う。今さらですが。

2014/05/20
nishino
西野マドカ
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sayonara_bun2

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ごく簡単に書き手をご紹介
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病理医ヤンデル(@Dr_yandel)
 1978年生まれ
 北海道出身
 札幌市在住
 市中病院勤務

西野マドカ(@nsn_mdk)
 1978年生まれ
 東北出身
 東京都在住
 出版社勤務
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