「誠実」というあり方が人を不幸にする例を見る。
ある行動について、「動く方」と「受け取る方」が存在することを思う。誠実という現象は往々にして、「誠実に動いた人の意図を、受け取り手が誠実であると認識した場合にのみ成立する」。
片方が誠意を尽くしたとしても、その誠意を受け取る方が誠意と感じなければ、それは「お節介」かもしれない。相手の誠意を受け取ろうと構えていても、行動する側になんらかの皮肉や揶揄の意図があればそれは「誠意乞食」となり得る。
知性の無い所に誠実は存在しないのかもしれない。 日々の生活に余力が無ければ誠実は存在しないのかもしれない。
そんなことを考える。
「よかれと思って」という序詞から始まるセリフがいちいち嫌いである。 「伝わると思ったのに」という言い回しには無知しか感じない。 「待っていたのに」というフレーズがもたらすものは最終的には絞殺である。 「もっと優しい人だと思っていた」という言葉と対になるのは「知ったことか」であろう。
そういう原則に取り囲まれた状態でSNSを泳ぐ。「一言」が意図せず蒸発して、液体程度の流速を期待していたのに気体の速度でいやらしい隙間にどんどん拡散していく。思いやりと重い槍の区別がつかなくなる。刺し殺されないために相手の手を刺しに行ったところ自分の腕を刺されそうになって相手の胸を刺そうと考え直す。
言葉を書き連ねるうちにノートが黒くなり、右手の小指の付け根あたりが真っ黒に染まっていく。先に書いた文字を自分の手でにじませていく。
掃き溜めにいるのはゴキブリでありヤブ蚊である。
誠実という言葉ひとつがこれだけの韜晦を生む。誠の実が虚しく割れる。人の気持ちを慮るということは、おだやかに置いてあった花瓶をためつすがめつ眺めているうちに中の水をこぼす行為に等しい。
人類はなぜ「会話の方向」に進化したのか。行動の必要性を伝達しあうだけならジェスチャーで十分だったのではないか。
誠実とは何か。
人と自分とがそもそも違うのだということを確認しないまま一人で歩き続けた先にあるものが、誰かとディスコミュニケーションを繰り返しながら千鳥足でよろよろたどり着く場所とどう違うのか。
頭を抱えながらそれでもコミュニケーションを続けるということが、本当に誠実であるということなのか。
文通という殴り合いを通して私が考えてきたことは、そのようなことです。一つわかったこと、ボクサーってのはあれ、殴られる快感もおそらくあるんだなということ。
さよなら文通、次もまた殴り殴られながらカオとコブシの形を整えていきましょう。結局は、続けるということが誠実ということなのだ。(1084字)