病理医ヤンデル

17通目(ヤ)

「誠実」というあり方が人を不幸にする例を見る。

ある行動について、「動く方」と「受け取る方」が存在することを思う。誠実という現象は往々にして、「誠実に動いた人の意図を、受け取り手が誠実であると認識した場合にのみ成立する」。

片方が誠意を尽くしたとしても、その誠意を受け取る方が誠意と感じなければ、それは「お節介」かもしれない。相手の誠意を受け取ろうと構えていても、行動する側になんらかの皮肉や揶揄の意図があればそれは「誠意乞食」となり得る。

知性の無い所に誠実は存在しないのかもしれない。
日々の生活に余力が無ければ誠実は存在しないのかもしれない。

そんなことを考える。

「よかれと思って」という序詞から始まるセリフがいちいち嫌いである。
「伝わると思ったのに」という言い回しには無知しか感じない。
「待っていたのに」というフレーズがもたらすものは最終的には絞殺である。
「もっと優しい人だと思っていた」という言葉と対になるのは「知ったことか」であろう。

そういう原則に取り囲まれた状態でSNSを泳ぐ。「一言」が意図せず蒸発して、液体程度の流速を期待していたのに気体の速度でいやらしい隙間にどんどん拡散していく。思いやりと重い槍の区別がつかなくなる。刺し殺されないために相手の手を刺しに行ったところ自分の腕を刺されそうになって相手の胸を刺そうと考え直す。

言葉を書き連ねるうちにノートが黒くなり、右手の小指の付け根あたりが真っ黒に染まっていく。先に書いた文字を自分の手でにじませていく。

掃き溜めにいるのはゴキブリでありヤブ蚊である。

誠実という言葉ひとつがこれだけの韜晦を生む。誠の実が虚しく割れる。人の気持ちを慮るということは、おだやかに置いてあった花瓶をためつすがめつ眺めているうちに中の水をこぼす行為に等しい。

人類はなぜ「会話の方向」に進化したのか。行動の必要性を伝達しあうだけならジェスチャーで十分だったのではないか。

誠実とは何か。

人と自分とがそもそも違うのだということを確認しないまま一人で歩き続けた先にあるものが、誰かとディスコミュニケーションを繰り返しながら千鳥足でよろよろたどり着く場所とどう違うのか。

頭を抱えながらそれでもコミュニケーションを続けるということが、本当に誠実であるということなのか。


文通という殴り合いを通して私が考えてきたことは、そのようなことです。一つわかったこと、ボクサーってのはあれ、殴られる快感もおそらくあるんだなということ。

さよなら文通、次もまた殴り殴られながらカオとコブシの形を整えていきましょう。結局は、続けるということが誠実ということなのだ。(1084字)

2014/06/10
YandelJ
病理医ヤンデル

16通目(ヤ)

ふと思ったのだが、君の手紙は1,000文字をちょっと超えているではないか。私は毎回、句読点や接続詞を工夫しながらぎりぎり1,000文字以内で収めようと四苦八苦していたのに。どういうことだ。本企画がはじまった時のメールを読み返してみると、「およそ1,000文字」的ニュアンスが書かれてはいるが「1,000文字を超えるべからず」とは一言も書かれていない。私が自分に課していた1,000文字厳守ノルマは、私の脳内に棲んでいる「いちいち細かいことにうるさくエアリプでdisってくる鬼編集者」の架空の説教によりもたらされた幻であった。

悔しい。

「編集者というものは他職種の人間になんらかの枷を与える仕事である」という私の先入観が、ありもしない精神抑圧的四面楚歌促進型被害妄想を生み出していたのである。隔週火曜日に「1,000文字の壁」と激しい合戦を繰り広げてきた私の日々も全て色あせてしまった。これも全て編集者のせいだ。 この際である。今日はこのまま「編集者のイメージは悪い」という話をする。もちろん、今回の事変(1,000文字事変と命名)で株価はストップ安、売り注文が止まらない。

私の知る限りでの話だが、編集者というものは、面倒な事務仕事(といいつつ世の中の大半の事務系職員と大して変わらない量の事務作業)を友人外非公開Facebookや匿名Twitterなどで若干スタイリッシュ気味に愚痴るのが日常となっている人種である。自分で創作できるだけの知見も智慧もありながら決して創作側には回らず、「私は書く人を支え育てる側に回りたいのです」と、聞いていて耳の下のリンパ節が腫れそうなくらいの美辞麗句を平気で発射する図書委員である。世事に対する審美眼を銃刀法抵触レベルで鋭利に研ぎ澄ませ、猛禽類の目とネコ科の脚力をもってして旬の話題を血に染める一方、草食動物の亡骸的コンテンツから「まだ使える!意外な使い方ができる資材」をはぎ取っていつしか装備してしまう食物連鎖を超えたモンスターハンターである。狩りの合間にはフォントとか紙質、万年筆など文系心を綿毛でくすぐるような小アイテムに熱烈なラブコールを送ることも忘れない計算型天然である。

つまるところイメージは最悪、諸悪の根源の風格すら漂う「編集者」と類似している職業などこの世にあるものか。「愚痴りながら事務仕事に励み、支える側と言いながら司令室で指示を出す軍師気取りのちょっと小うるさいマイルドインテリ系くされオタク」というと、確か病理医という仕事が少し似(1,000文字)

2014/05/27
YandelJ
病理医ヤンデル

15通目(ヤ)

ふと思ったんだけども、文通ってのは、「お互いに相手の書いたものを読んで連想して、最後に相手に唐突な質問を投げつけて終わる」みたいな感じなのね。今更だけど実感したわ。

けっこうな昔、雑誌に「文通相手募集覧」があった頃。今よりも個人情報の保護が圧倒的にゆるい時代で、みんながみんな「当方大学生、純文学とビリー・ジョエルが好きです」なんて簡単なプロフィールを、実名・実住所を添えて投稿しちゃうわけよ。あぶないよねえ。すると、雑誌の読者から実際に手紙が来ちゃうんですよ。「はじめまして。お花とネコと河川敷が好きな19歳、短大生です。興味がありましたので一筆差し上げます。もし私でよろしければ文通しませんか?」なんてね。私でよろしければってこの文章であなたの何がわかるってんだよ、っていうツッコミはヤボなわけ。かわいい女の子を想像できれば十分なんですよ。お互いにね。

今なら考えられない。でもこういう時代があった。IT時代のスピードと悪意に飲み込まれてしまって絶滅した文化です。LINE IDさらしとけばチャットできちゃう時代にあえて文通ってのは、なんとも昭和心をくすぐるなあと思ったことがある。

ところで文通ってのは、「話したい相手がいるから話しかける」とか「自分の心の奥底から湧き出てくる何かを手紙にしたためて送る」っていうよりも、「とにかく文通というちょっとドキドキする趣味に没頭してみたい」っていう意欲の方が先に立ってしまうタイプの趣味かもね。どうしたって見ず知らずの女性……性別だって本当はあてにならないんだけど、とにかくその謎の女性(仮)とのやりとりを「継続させる」方にばかり集中していく。そのためには、多少唐突だろうとも文章の最後に質問とか問題提起をおいておく。すると、とりあえず返事をもらえる。返事にも「お返し」とばかりに近況を尋ねる質問とかが入ってるわけ。それでやりとりを続けていく。内容が多少飛んでいてもかまわないの。ま、文通ってそういうもんだよね。

だからいいんだけどさ。
長い前フリでフォローしたけどもだ。

何、この前回のやつ。コンサルティングの話も唐突だけどなんでこっから総合診療に飛んでいきなり病理にたどりつくんだ。無理矢理結びつけすぎだろう。編集者として原稿依頼したいなら文通形式じゃなくていいじゃないの。

文通は自称美女同士が夢もってやるもんだろうに、気合いが足りないわ。しっかりしろ。もっかい書き直せ。

2014/05/13
YandelJ
病理医ヤンデル

14通目(ヤ)

スーツそしてワインと話が進んだのでさらに夜景や猥談へと話を広げるべきかもしれないが、ワインの話を続ける。

ソムリエが、このワインを飲むべきだという“絶対の1本”を心に置いている場合、これを患者……ではなかった客に「選ばせる」ために必要なスキルとは何か。言語化できるものではないらしい。

私であれば、ソムリエの敷いたレールに乗ってその“1本”にぜひたどり着かせてもらいたい。ソムリエにまかせず自分で自由に1本を決めたい人もいるだろうが、私の場合はどう考えても自分よりソムリエの方がワインに詳しいし愛着もある。小さい思いを軽く伝えてみた上で、せっかくならプロのソムリエの書いた台本に則ってみたい。ソムリエが言語化したワインや料理のうんちく、さらには言語化していない勘や経験まで、まるっと信じた上で自分が演者になればよい。自分より何倍も勉強しているプロの経験ごと飲み干すワインの味だ。付け焼き刃の知恵で選んだワインよりうまいに決まっている。全てが言語化されている必要はない。理屈で説明できないところが残っていた方がおもしろい。

以上は私の個人的な振る舞い方であるし、人によってソムリエに求めるものは千差万別であろう。もちろんそれでいい。

これに対し。

医療は、患者の経験や付け焼き刃の知恵で選んだ治療法よりも、患者より何倍も勉強しているプロの経験を反映した治療の方がいいし、「そこには理論がある」。言語化されていない理由で治療選択をするとか、患者に「自由に」治療を選ばせるなど言語道断である。

患者に選ばせるのは「もうこの選択肢ならあとはどれ選んでもたいして変わらないよ」か、「この選択肢だとどれを選んでもメリットとデメリットがあるけどあとは好みだよ」という段階での話。患者が選択を求められる前に、メリットが少ない選択肢やデメリットが多い選択肢については、言語化された医学理論があらかじめ切り落としてしまっているのである。切り落としの過程を含めて、一貫した医学理論を患者に丁寧に説明することこそが肝要だ。

患者が医者に求めているのは医師が個性を発揮することではない。疾病によって失われた自らの個性を取り戻すことだ。言語化されていない医療なんぞクソである。医療はアートだとうそぶく人間ほど、自らの医療理論を言語化できずに狭い経験で診断や治療を行っている……。

と、私の友人が言ってました。ぼくはそんなこと言わないぽよ~

2014/04/29
YandelJ
病理医ヤンデル

13通目(ヤ)

販売業に籍を置く人間にとって、顧客一人一人に顔を向けて個人が求める最高の商品を完全オーダーメードで提供する、というのは、事実上ほとんど無理だと思う。客が百人いれば百通りの「好み」があるのだ。店の規模が大きくなれば客の数も莫大になるし、どうしたって客一人一人の顔は見えなくなるし、一般的に売れ筋と言われるものを用意せざるを得ない。

では、販売の規模が小さい個人商店レベルであればどうか。顧客と友人のような関係を築き、顧客の現在の生活スタイルや将来的に望む理想の暮らしまでじっくりと聞き取って、完全オーダーでスーツや革製品などを作る職人というのがいるそうだが、そういうのは超高級ブランド化していて庶民には手が届かない。日本に生まれた普通の男性(つまり私)にとって、「完全オーダー」というのは地位も金もコネも運も無ければたどり着けない高嶺の花である。

客ごとにデザインを変えるというのは手間がかかる。そこで、時代のニーズを読み取って、ある程度の「型(かた)」を用意しておいて、せいぜい腰回りとか背中の大きさ、肩の角度などを変更する程度で提供する「セミオーダーメードのスーツ」というのがある。客はその場で肩幅や股下など、何カ所かの採寸をしてもらえばいい。完全オーダーに比べれば値段はかなり安く、手軽な割に満足度も高い。

私が高校を卒業したときに親父が買ってくれたのが5万円程度のセミオーダースーツであった。現在の私がよく着ている、ズボンが2本ついて12,000円くらいの安スーツと比べるとその差は歴然である。仕事で講演を頼まれはじめた頃は「いい額の講演料が入ったら、スーツを(セミ)オーダーするのだ!」といきり立ったものである。あれから幾星霜、なぜか講演料は目先の飲み代に消えるばかりでスーツは増えない。

話は変わるが私は医療者であると同時に患者でもあるので、「販売側」である医療者ができることがある程度わかるし、「顧客側」である患者が望んでいることも人並みにはわかっている。最近の病院が、「ほぼ無限に存在する型の中から似合うであろうセミオーダーデザインを2つか3つ顧客に提示して患者に選ばせている」のを知っているし、患者が「そういうのわかんねぇから、完全オーダーでビシッと決めてくんねぇかな!」と思うのもよくわかっているつもりであるが、正直に言えば(文字数が足りなくなったので試合の途中ですが中継を終わらせていただきます)。

2014/04/15
YandelJ
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病理医ヤンデル(@Dr_yandel)
 1978年生まれ
 北海道出身
 札幌市在住
 市中病院勤務

西野マドカ(@nsn_mdk)
 1978年生まれ
 東北出身
 東京都在住
 出版社勤務
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